
(チェコ・プラハを市街を見下ろす公園に掲げられた“スターリン風のプーチン” “flickr”より By
Vsevolod Vlasenko http://www.flickr.com/photos/13465775@N03/10482164084/in/photolist-gYgQbY-gqsGX9-fF8uLS-fQvSBs-gi6fV3-gi6EyB-gi6Q4B-gi6ncU-gi6xJK-gi6i7u-fQvN5o-fQvShE-h58NUZ-fSmpqt-gmGFU5-hxnSKX-hN1fGM-hAoP5G-fDucRP-fod4tQ-fnXKAF-fnXKnB-fnXMzp-fod2Cs-fod2hN-fod2vu-fnXMDg-fnXKjr-fod2ds-fod4xY-fnXMdD-fnXMoe-fnXKBP-fod2EQ-fod4mC-fnXJLe-fod2rA-fod1Zy-fod2zf-fnXMtr-fnXKxp-fod2kC-fnXJHr-fnXMix-fnXKEF-fod2mS-fnXMqD-fod1jN-fod2cS-fnXMcH-fod469)
【「スターリン主義のルネサンス」を否定したメドベージェフ】
ソ連を戦勝に導いた“英雄”であり、膨大な犠牲者を出した“独裁者”でもあるスターリンに関するロシア内での評価の話。
最近の記事の前に、3年以上前のメドベージェフ大統領時代の記事を先ず紹介します。
****ロシアでようやく固まったスターリンへの評価****
2010.05.19(水) コンスタンチン・サルキソフ
ロシアにおいて、旧ソ連時代の社会主義とスターリンへの評価がようやく固まったようだ。いずれに対しても、その評価は否定的なものである。
5月9日、モスクワでドイツとの戦争(独ソ戦争)の戦勝65周年を祝う式典が挙行された。正確な数字は今でも不明だが、ソ連はあの戦争で大変な犠牲を払った。独ソ戦争の勝利を祝う式典は、ロシアにとって極めて神聖なものである。
当時のソ連の指導者はスターリンだった。独ソ戦をどう評価するか、そして戦時中のスターリンの役割をどう評価するか。それは単に歴史的な認識だけにとどまらず、今のロシアのあり方と今後の民主主義の将来を左右する重要な問題である。
スターリンの功績を評価していたプーチン
1991年の反共革命とソ連崩壊後、ロシア人の過去の歴史に対する心境は矛盾に満ちたものだった。政府の立場も固定することはなく、揺れ続けていた。エリツィンの時代は社会主義とスターリンを全面的に否定していたが、プーチン時代になって、もっと「バランスの取れた」立場に変わってきた。
その背景には、プーチンが縦割りの権力システムを強化し、「強いロシア」の実現を目指したことがある。
プーチンはスターリンの中に「悪」と「善」の両方を見出そうとして、独ソ戦に勝利したスターリンの功績を評価していた。
また、プーチンは欧米を挑発するかのように、スターリンの偉大さをほのめかす発言を繰り返した。NATO(北大西洋条約機構)本部のロシア代表としてプーチンに任命された国粋主義者のドミトリー・ロゴージン氏は、自分の書斎の壁にスターリンの写真を掲げていた。
メドベージェフは「国民に対して罪を犯した」と糾弾
メドベージェフ大統領の立場は、プーチンとは違うように見える。彼は過去の歴史を「悪」と「善」で単純に色分けする人間ではないが、社会主義とスターリンに対しての評価は厳しく、否定的である。
5月7日、メドベージェフは新聞のインタビューで、「ロシア大統領」の立場として次のように答えていた。
「率直に言って、旧ソ連は全体主義に染まっていたと言わざるを得ない。残念なことだが、全体主義の制度の下で国民の基本的人権と自由が押しつぶされた。この圧迫はソ連人だけではなく、社会主義陣営の他の国に対しても行われていた。この事実を歴史から消し去ることはできない」
メドベージェフはスターリンに対しても、次のように批判する。
「戦争中にスターリンが果たした役割がどうあれ、現在のロシアから見ると、スターリンは当時の国民に対して山ほどの罪を犯した。彼がよく働き、彼の指導の下で国家が発展したことは事実だが、彼の国民に対する犯罪を容赦することはできない・・・スターリンへの評価は人それぞれであってもいいと思うが、ロシアとして、そしてロシア大統領としては否定的な評価をせざるを得ない」
ロシアでは、第2次世界大戦で連合国が勝利したのは「100%ソ連のおかげだ」とする声が多かったが、これに対してもメドベージェフは、「ヨーロッパや、その他の国の国民とともに戦って勝ったのだ」と強調している。
また、「自由主義陣営が歴史を歪曲し、偽造している」という旧ソ連のプロパガンダに対して、「我々も歴史を捏造していた」と率直に認めている。
メドベージェフのこうした発言の背景には、一体何があるのか。
最近、二頭政権に対する不満が高まりつつある。共産党をはじめとする野党勢力の中には、「歴史を客観的に見ろ!」というスローガンを掲げて、スターリンの名誉回復を図ろうとする動きが出てきている。
実際にモスクワ市長は、独ソ戦の勝利記念日を迎えてスターリンの写真を町の中心に掲げようと思っていたが、大統領府と「統一ロシア」与党の反対、さらには世論の猛反発を受けて結局あきらめた。
スターリンの役割を再考する動きは「スターリン主義のルネサンス」と呼ばれる。メドベージェフは、この動きが、欧米と接近している今のロシアに害をもたらすものだと考えている。だから、「スターリン主義のルネサンスはないし、今後もあり得ない」と断言しているのだ。
「救世主」の崇拝は遠い過去の話に
ロシアでスターリンが否定的に評価されるようになったのは、時間の経過のせいもある。
最近、全ロシア世論調査センター(VCIOM)が実施した世論調査では、65年前の歴史に対する国民の関心がどんどん薄れていることが明らかになっている。
過去の歴史を誇り、ドイツとの戦争に勝利したスターリンを英雄視することは、長らく国民の思想の柱だった。だが、今は違う。2001年に「スターリンに関心がない」と答えたのは11%だったが、2009年には28%まで増えた。その傾向は若い年齢の人ほど強い。
また、「今のロシアには、スターリンみたいな指導者が必要か」という質問に対して、肯定的に答えたのは、2001年に19%だったが、2009年には9%しかない。まだ40代であるメドベージェフの価値観も、前の世代とはまったく違っている。
スターリンを「救世主」と崇めたてまつる現象は社会主義国家の一種のモデルとなり、スターリンの死後もソ連で延命し、中国でも毛沢東を個人崇拝する形で続いていた。現在でも北朝鮮やキューバ、旧ソ連共和国のベラルーシ、中央アジアなどでそのモデルが生き続けている。
一時期、プーチンも「ナショナルリーダー」としてロシアの救世主になりそうな気配だったが、幸いにしてそうはならなかった。「救世主」を崇めたてまつるモデルは、もはやロシアでは成り立たない。スターリンを否定するロシアの公式見解は、いつか「プーチン主義」に対しても向けられるかもしれない。【2010年 5月19日 JB PRESS】
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かつては二頭政治とも言われながら、現在はロシア政治への影響力をほとんど失ったように見えるメドベージェフ首相ですが、スターリンを明快に否定するあたり、今さらながらプーチン大統領との資質の違いが窺われます。
次の記事は、今年3月のスターリン没後60年のときのものです。
****スターリン没後60年、評価は今も二分****
2013年03月06日 12:09 発信地:モスクワ/ロシア
4日に旧ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンの死去から60年を迎えたロシアでは、スターリンを数百万人の大量虐殺を行った暴君とみるか、第2次世界大戦後のロシアを大国に押し上げた救世主とみるかで国民の意見が二分している。独立系調査機関レバダ・センターが今月行った世論調査では、スターリンが果たした役割を肯定的に評価したのは49%、否定的に評価したのは32%だった。
1953年3月5日のスターリンの死を、恐怖と粛清の終わり、そして冤罪(えんざい)で有罪にされた多くの人々が強制収容所から解放された日と位置づけた人は55%。
一方、この日を偉大な指導者を失った日とした人は18%に過ぎなかった。
同じ世論調査で、第2次世界大戦で激戦が繰り広げられたロシア西部のボルゴグラードの都市名を、ソ連時代のスターリングラードに戻そうというロシア当局の提案に対しては、55%が反対していることがわかった。
2008〜2012年に大統領を務めたドミトリー・メドベージェフ首相は、スターリンの遺産を否定的に捉え、脱スターリン路線を進めようとさえした。
一方ウラジーミル・プーチン大統領はスターリンについて自身の評価を明らかにすることを避けている。【3月6日 AFP】
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【プーチン政権下で進むスターリン時代再評価】
“プーチン大統領はスターリンについて自身の評価を明らかにすることを避けている”とのことですが、歴史教科書において“歴史の書き換え”作業を着実に進めているようです。
****独裁者や戦争肯定は愛国心養成? ロシア歴史教科書要領で論議****
2013年11月27日(水)
ロシアのプーチン政権が乗り出した学校用の統一歴史教科書づくりで、その指針として専門家らの策定した指導要領が論議を呼んでいる。
「愛国心」の養成を歴史教育の眼目と位置づける同要領が、過去の独裁者や戦争を肯定的にとらえているためだ。膨大な人的犠牲といった歴史の暗部を矮(わい)小(しょう)化する姿勢には「人や社会を軽視した国家至上主義が鮮明だ」との批判が強く、現政権による自己正当化の思惑が垣間見える。
プーチン大統領に提出された指導要領(80ページ)は、新たな教科書を通じ、愛国心と国民のアイデンティティー(自己認識)、諸民族の寛容さを育むことが必要だと強調。そのために、大祖国戦争(第二次大戦の独ソ戦)などでの「偉業」や「英雄的行為」に力点を置き、諸民族がロシア国家に加わることで得た利点を重視するよう求めている。
ソ連崩壊後のロシアは共産主義に代わって国民を束ねる理念を打ち出せず、民族間の関係も悪化している。2月に歴史教科書の統一作業を指示したプーチン氏には、自国の歴史に対する「誇り」を持たせることで、国民の一体感を創出する狙いがあったと考えられている。
そうした方向性は特に、ソ連の独裁者、スターリンの時代に関する評価に際立っている。
同要領は、スターリンの恐怖政治が確立していった1920〜30年代について、「近代化が生活の全ての面に及んだ」と記述。30年代前半の農業集団化などに伴った300万〜600万人の犠牲者数は原案から削除された。37〜38年だけで約70万人が銃殺された大粛清についても、その規模には触れていない。
第二次大戦をめぐっては、独ソ不可侵条約の秘密議定書に基づくポーランド分割(39年)が開戦の端緒となったことが完全に捨象された。指導要領では「大祖国戦争」(41〜45年)のくくりで、ドイツによるソ連奇襲から大戦が始まったかのように描かれている。
この戦争に伴う「社会の団結」は強調されている半面、スターリンによる少数民族の強制移住など苛烈な戦時体制については、言及すべき用語の項に列挙されているにすぎない。
45年8月9日の対日参戦は「同盟国に対する責務」と正当化。同月15日に日本が降伏した事実は無視し、「満州での作戦で関東軍を粉砕」「クリール諸島(千島列島と北方四島)を解放」などとしている。
現代史でどの時期までを扱うかには多くの議論があったが、結局、プーチン氏が通算3期目の大統領に就いた2012年までが対象とされた。00年以降の「プーチン時代」は、新生ロシアに安定と経済発展、国際的地位の向上をもたらしたと位置づけられている。
歴史問題に詳しいルイシコフ元下院議員は「国家は常に正しく、為政者は偉大だというのが指導要領の趣旨であり、帝政時代やソ連時代の公式史観と何ら変わらない。現政権の支持につなげるという政治的意図が明らかだ」と指摘。「このような歴史認識では国民の隷従的意識しか生まれず、民主主義社会の建設は不可能だ」と話している。
関係者によると、指導要領に基づく執筆者や出版社の選定を経て、統一教科書は早ければ14年中にも現れる見通しだという。【11月27日 産経】
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多くのイスラム教徒を抱えて、民族対立やテロなどの問題に苦しむロシアの事情はわかりますが、それは“愛国心”を鼓舞することではなく、国民一人一人の権利を尊重して平等な関係を構築していくことによって克服されるべき問題です。
中国の“愛国教育”の影響はよく指摘されるところですが、ロシア版“愛国教育”の弊害が懸念されます。
【習近平:毛沢東の業績に疑問を持ってはいけない】
一方、経済格差の拡大、不正・腐敗の横行で貧困層などの不満が高まる中国においては、毛沢東時代を懐かしむ動きが出ています。
それに伴い、毛沢東生誕120周年を前に、毛沢東時代の“歴史書き換え”が行われているようです。
****毛沢東時代の大飢饉は仕方なかった? 中国の歴史修正主義****
10月16日付米ニューヨーク・タイムズ紙は、Chris Buckley同紙記者の解説記事を掲載し、毛沢東生誕120周年を前に、中国では、大躍進の際の死者数を過小評価し、毛沢東の政策のせいではなく、自然災害で仕方なかったとする動きがあることを伝えています。
すなわち、1958年〜1962年に中国を襲った飢饉は、2000〜3000万人の犠牲者を出した史上最大の大惨事と言われ、毛沢東時代を決定づける災難の1つである。以来ずっと、中国共産党は、共産国家の創設者への崇敬の念を維持するため、この惨事を、検閲や婉曲表現で覆ってきた。
しかし、12月26日の毛沢東生誕120周年を前にして、毛沢東支持者や党の論客達は、長い間の公の沈黙を破って、彼らなりの解釈で被害程度を下げ、反対する歴史家を攻撃し始めた。彼らは、飢饉によって数千万人の死者が出たことを否定する。
党の機関紙「環球時報」は、数学者の言葉を引用し、大躍進の時期に栄養失調で亡くなった人は、最大250万人である、とした。それ以上の数字は、統計上の欠陥によるものであり、村から村へ移動した人達を重複して数えた、とする。
毛沢東に対する評価は、党にとっても重要である。何故なら、党は、革命的政策に、その起源があるからだ。そして、習近平主席は、前任者達よりも、自分の家族が毛沢東時代に苦しんだにもかかわらず、革命的遺産を護るのに熱心である。
大躍進は1958年に始まった。丁度、共産党指導部が、農村の大改革を行ない、労働力を動員して急速に中国を工業化しようという毛沢東の野心的政策を採用していた時だ。理論的には生産力が上がるはずだったが、急いで工場や人民公社を建設しても、結局、効率は上がらず、生産力は下がり始めた。
1959年までには、食糧不足が地方で起こり始めた。収穫は都市に吸い上げられてしまうので、農村では食糧不足は拡大し、飢餓が蔓延するようになった。批判する役人達は追放され、恐怖政治の雰囲気の中で、政策は継続され、大惨事が積み重なって、ようやく毛沢東は政策を放棄した。
元中国国防大学の歴史家は、「数字に関して学者間で意見の相違があっても、大躍進で大災害がもたらされた事実に変わりはない」と述べた。彼は、在職中の殆どを毛沢東時代の研究に費やしたが、彼の推定では、約3000万人が異常な死を遂げた。
72歳の歴史家で元新華社通信の記者Yang Jisheng(揚继绳)氏は、大躍進と飢饉の研究を『墓碑』(Tombstone)と題する本にまとめた。2008年に香港で中国語版が出版され、改定縮小・英語版が2012年に出版された。中国国内では発売禁止であるが、海賊版などで広く読まれている。この研究によって、彼は、長く中国国内で攻撃されて来た。
Yang氏によると、大躍進による暴力と食糧不足による死者数は3600万人に上る。彼は、50年以上前の大飢饉を否定するような動きは、最近の懸念すべき政治状況の嫌な前触れである、と言う。
「共産党の支配を護るには、何千万人が飢饉で亡くなったことを否定しなければならないのだ。党指導部は社会的危機を感じていて、その支配的地位を護るのは喫緊の課題である。それで過去の真実を回避する必要があるのだ」とYang氏は語った。
習近平の父、Xi Zhongxun(習仲勲)は、毛沢東の同僚であったが1962年に追放され、16年間の刑に服し、政治的屈辱を味わった。しかし、習近平は、家族の思い出ではなく、政治的判断によって、過去と向き合っている、と『墓碑』英語版の編者であるエドワード・フリードマン(ウィスコンシン・マディソン大学名誉教授)は言う。
1月、習近平は、役人達に、毛沢東の業績に疑問を持ってはいけないと訓示した。彼は、政治的たがを緩めることの代償として、繰り返し、ソ連崩壊を例に挙げた。
4月には、党支配への7つのイデオロギーの危険を明示した指令を発出した。その中には、「歴史ニヒリズム」が含まれる。すなわち、党の実績を批判して、「中国共産党の長期支配の正当性を否定すること」である。
フリードマン教授は、「彼らの偉大なる指導者は神聖である必要がある。そして、彼らには、古き良き過去が必要なのである。」と語った。(後略)【11月27日 WEDGE】
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****スフィンクス?巨大な毛沢東像、生誕120年前にお色直し****
中国の初代国家主席、毛沢東の生誕120年を来月に控え、中部湖南省の長沙では人気観光スポットとなっている毛沢東の巨大な頭像のお色直しが進んでいる。生誕120周年となる12月26日には、毛沢東の故郷の湖南省で盛大なイベントが行われる予定。【11月27日 AFP】
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大躍進政策については、“地方政府が誇大な成果を党中央に申告した結果、中央政府は申告に従って地方に農産物の供出を命じ、地方政府は辻褄あわせに農村から洗いざらい食料を徴発したため、広範囲の農村で餓死者続出の惨状が起きた”【ノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン氏の見解 ウィキペディアより】とのことですが、現在の地方政府による生産第1主義に共通するものがあり、過去を直視しないことが、共産党による同じ過ちを惹起しているように思われます。
また、毛沢東を担ぎ出すのは失脚した薄熙来などのニューレフトの特徴ですが、権力闘争で薄熙来を打倒した習近平国家主席自身も多分にそうした傾向に重なるものがあるようです。
いずれにしても、過去の犠牲、痛みは時間とともに薄れていきます。
そのようなときに、国家指導者が過去の負の側面を消し去り、自身が進めたい政策と共通する側面を肯定的に評価するような動きを見せ始めると要注意です。ロシア、中国だけの話ではないことは当然です。